Russell Scott Peagler
ラッセル・スコット・ピーグラー

Autobiography - 自分というフォトグラファーの誕生
By Russell Scott Peagler

1980年7月26日 − 米国サウスカロライナ州、チャールストンに生まれ、乳牛達の傍らで成長を始める。母の髪は黒く、姉の髪は赤色、そして父は禿げ頭だ。私の髪はブロンドで、私は青い目をしている。我々は雑種であり、アメリカ人である。

1987年、秋 − 初めての断片的な記憶が作られる。それまでの幼少時代のことは何も憶えていない。森で遊んでいると落ち葉の美しさに不意に撃たれた。足元には多色の海が広がり、赤色、橙色、そして黄色の濃淡がまだらな落ち葉がもっと前に落ちた葉の上にかぶさっている。指先で地球の表面を感じながら、両腕を使って足元に広がる落ち葉の海をすくった。胸に落ちてきた何百もの落ち葉は、空中に投げ掃うと再び地面に落ちてきた。ふと自分の腕や手に目をやるとびしょびしょに濡れていた。上半身は泥まみれだった。自分の体には地球のにおいが染み付き、そのにおいの強さに息をのんだ。私は混乱し地面の一番上の層を除けてみると、森の床は腐敗がもうすでにかなり進んでいる黒い落ち葉に覆われていた。落ち葉はところどころ一体化していて、一見すると蜘蛛の巣のような黴に侵食されていた。私は怖くなって逃げ出した。当時は解らなかったが、これが私の初めて経験した死というものであった。

1988年5月13日 − 穴の前に立つ。私の左側にある棺桶はその蓋の上に赤と黄の花を添えられ動くことなく佇んでいる。最前列には座りたくないと母に訴える。亡くなった祖母は肉親だから仕方が無いと、母は私の願いを退けた。掘りおこされ山積みになった土のにおいがする。積まれた土の山の下の方は茶色で乾いていた。一番深いところから掘り出された土は黒く濡れていて、その土の山のてっぺんにあった。がらんどうの棺桶の上に土が激しく落ちる音が聞こえた。それからおよそ20年経って、私は首からカメラを掛け歌舞伎町の喫茶店に座りこの日のことを思い浮かべ、まさにこの記憶が自分の初めての完全な写実的記憶であることに気付く。

1989年2月24日 − 祖父が逝く。外には雪が降っている。祖父は家のリビングに作られた即席の病室に私を呼び寄せた。話しはじめると祖父は私の名前を忘れ、他の従兄弟達の名前を並べ始めた。父に退室するように言われ、外に出て雪で遊んだ。黒い服の牧師が帰って行くのが見える。彼は今、私の一番近くにいる神へのメッセンジャーであるので私は彼を通して神に伝言を送ることにする。彼の黒い背中に雪の玉を思い切り投げつけた。彼は振り返り、私に向かって雪の玉を投げ返してきた。祖父の葬式のことは少しも憶えていない。私の記憶の中では存在すらしていない。

1992年 − 姉の友達になった日本から来た留学生と出会う。彼女は17歳で私は当時12歳だった。日本についてたくさん聞きたいことがあった。彼女はハイチュウというキャンデーをくれた。変な味がすると思った。彼女は「AKIRA」という漫画本をくれた。読めはしなかったが絵を見た。

1999年 − 高校を卒業し、大学進学のためサウスカロライナ州の北の方に移る。社会学を専攻する。理論や学説が多すぎる。私は教授に向かって言った。「箱の中にいて、その箱の外では思考すら存在しないという気がしてならない」と。私がなぜそのような事を言ったのかを解明する学説を探そうとその教授はこの瞬間も頭の中で模索しているかもしれないと思った。教授は困惑している様子だったが、私は立ち上がり教室を後にした。大学での専攻を文学に変える。知らないうちにフォトグラファーになるべく第一歩を踏んでいた。書き始めた。全てのものは繋がっていて、世界が大きな蜘蛛の巣の様に見えるようになる。

2001年11月 − 帰国した日本人留学生が姉の結婚式の為に再びやってきた。恋に落ちたような気がした。彼女はその頃26歳で私は21歳。姉の結婚式の後、まもなく彼女は去った。もう2年間も付き合っている彼女がいた。結婚式から戻ると私は彼女に言った。「箱の中にいて、脱け出す事すらできないという気がしてならない。」

2001年12月14日 − 日本へと飛ぶ。アメリカの外には出たことが無かった。パスポートを手に入れた。生まれて初めて電車に乗り、初めて超高層ビルの立ち並ぶのや、こんなにも大きな人だかりを見た。彼らの髪は黒く、目も黒い。彼らは日本人として生まれたのだ。

2003年5月5日 − 大学を卒業し、私達は結婚する。日本に移った。自分が外国人であるという証のカードを初めて渡された。私は書き続けるのだが、退屈に感じるようになる。自分の作りたい場面や心臓が震えるような場面だけに興味をそそられた。登場人物の人格や生活を形成し、展開させてゆくのは嫌いだった。個々の場面や刹那の思考が独立することができたらどんなに良いだろうと考えるようになる。個々の場面、思考を丸裸にし、名も無く、壊れやすいものにできたらと。

2005年2月 − 国際政治学の修士課程を修了する。級友達が就職の準備をしている頃、私はただ疲れ切っていた。この二年間自分が戦争犯罪人を裁く裁判官の一人になっていたような気がした。

2005年5月 − 上智大学に二年間通いはじめる。

2006年2月 − 初めてカメラの本体を買い、日本の父の戸棚で見つけた古いレンズを使う。初めてチベットに行く。自分がどう撮りたいのか、何を撮りたいのか判らない。かなり細々とだがまだ書き続けている。

2007年3月 − 初めて本格的に書き始める。ペンではなく35ミリのカメラを手にして。これまでページ上にあった場面たちが36mmX24mmの四角形に固められてゆく。1980年代の写真教本を読み、フィルム現像やプリント方法を自ら学ぶ。友達が自分の引き伸ばし機、トレイパッド、イーゼルや現像タンクを貸してくれた。もう一人の友人がその他すべて必要な物を使わせてくれた。ゆっくりと学んでいる余裕は無いと自分に言い聞かせる。どんどん年老いているし、金も無い。私はさらに自分に言い聞かせる。全ての物事は繋がっているということを、憂鬱になったり落ち込んだりするという事は何も感じない事よりどれほど良いかという事を。私はカメラに「よろしく」と語りかける。私の膝の上に佇むそれは動くことなく、瞬きもせずに私の顔をじっとみつめ、そして...
これまでの掲載誌と写真展

米国芸術誌Sojourn Journal Volume 19及びVolume 20
米国芸術誌 Inkwell Spring Issue Volume 21
米国芸術誌Qwerty Spring 2007 Number 21
米国芸術誌 Phoebe Fall 2007 Volume 36 Issue 2 (特集アーチストとして表紙掲載)
月刊日本カメラ平成20年10月号『Dear Passengers - 敬愛なる乗客の皆様へ』口絵掲載
2007年4月『Tokyo in Five - 始発電車の東京』文京区Whitehouse&Co.ギャラリー, Caf? Works Luftig店内
2007年5月『ラッセル・スコット・ピーグラー写真展』 文京区Jazz喫茶「映画館」
2007年6月『Fragments』文京区Whitehouse&Co.ギャラリー, Caf? Works Luftig
2007年9月『Dialing Home 』モンサントギャラリー(米国、サウスカロライナ州立ランダー大学内)
2007年10月−2008年1月『頌歌 第一章』・『頌歌 第二章』渋谷区La Muggina
2008年5月・6月『4554』 文京区Jazz喫茶「映画館」
2008年8月『Dear Passengers - 敬愛なる乗客の皆様へ』 銀座ニコンサロン

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作品『Dear Passengers - 敬愛なる乗客の皆様へ』について
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真昼なのだがそれさえ分からない。我々の視界を通り過ぎる煙突からは日中の太陽でさえも霧に包まれた朝日のようにしてしまう程の公害が噴き出している。車内放送がスピーカーから流れる。まずは中国語で、それから滑稽なほど英国訛りに演出された英語の放送が流れる。私はこの男の声にもうすでに嫌気がさしている。北京を出発してからというものこの男は嘘ばかりをならべている。私はただ気持ちよくラサに到着したいだけなのだ。写真を撮ることに集中しろ。私は自分に言い聞かせる。でも無理だ。少しでも落ち着くと、とたんに煙草を吸いたくなるか、この男が偽りを唱え始めるのだ。何でも疑うようになり、この声の持ち主は本当に英国人なのかと疑うようになる。その完璧な英国訛りが作られすぎてはいないかと考え始め、首都北京の薄暗い事務所で中国人男性がその放送を吹き込んでいる様子が目に浮かぶようになる。

集中せねば。何を撮りたいのかは決まっている。ありのままのチベットが撮りたいのだ。真のチベットを。私は美しい風景や色ばかりの『いかにもチベット』という写真には飽きていた。そんな写真はいつもチベットが遠く感じられ、まやかしが写し出されているように見えるからだ。絵葉書の写真、その類のものは『私が旅行したところだよ』と故郷で待つ恋人に送るような写真である。

永遠に変わることのないような冒頭でその英国人が邪魔に入る。『Dear Passengers 敬愛なる乗客の皆様へ)』と。その声は、今まさに窓の外にはその美しさで名高い『人々が一度訪れると離れたくなくなる地域』が見えるのだと私に言う。私は疑い深く聞いているが、もう一日半も電車に乗っているので退屈でもあった。だから彼の言う通りに窓の外をふと見てみる。するとまたこれまで通り過ぎてきた何百もの景色と同じで、力のない目で電車を見つめながら立っている人々や埃の舞う道で日課をこなしている人が見え、セメントでできたブロックが崩れた建物が続き、方々にゴミがちらばり煙にくすんだ町が見える。その光景は爆弾攻撃の余波のようにも見える。

その時、焦点が合った。この英国人のお陰だ。彼の嘘に私は奮い立たされた。その声は歴史や私自身の事について知りたかった全てを教えてくれた。それは私がPassenger (乗客)であるという事、彼は私に自分が伝えたいことを伝え、私が信じようが信じまいが彼には一切関係のないという事、さらにそれは彼は私が何もしないと知っているからだという事を。彼は正しかった。列車の乗客には立ち上がって叫んだり、列車乗務員の首筋に割れたビール瓶を近づけ真実を求めたりする者がいないのだから。我々は辛抱強く座席に座りラサに到着するのを待つ。我々、乗客の中には観光が目的の者やチベット人から仕事の機会を取り上げようと思う者、また様々な理由から写真を撮りたいと思っている者もいる。

しかし今、私の焦点は合っている。Passenger (乗客)という簡単な言葉が全てを要約してくれたのだ。物事を変えてゆこうとその道を模索し勉強を重ねた年月、歴史の反復への懐疑、そして失われた記憶と拭い去れない記憶。これら全てを。我々はPassengers(乗客)である。まさにそうではないか?我々は自分たちが乗っている列車を止めようをどの時点で強く要求するのであろうか? 広島と長崎での原爆投下の後、世界各地で多くの人々が抗議に立ち上がった。しかし、比べればその二つの原爆があたかも投げられた石ころのように見えてしまうようなより遥かに強力な武器が作られるのを人々は傍観し、黙って肩をすくめテレビの前に腰を下ろしてしまった。

この作品の主眼は私の愛する国である。その国は1959年以来、文化革命の名のもと大量虐殺を経験してきた国である。そして私は危ぶむ。我々は子供の頃に持っていた心をまた見つけることができるのか、自分たちの真の声を探し出すことができるのか、そして我々は神に見放されたこの列車からいつか自らの意思で降りることができる日が来るのかと。



http://flickr.com/photos/russell_scott_peagler/


祖父は雪の季節に死んだ。祖母は太陽の季節に逝った。空は青かった。八歳の少年は底なし穴のへりに立つ。縄に支えられた箱が沈んでゆくとその穴から塵のもやが躍り出る。少年の目は青く、その心臓は黒い。首と顔の周りを踊る死の煙を吸い込んだ。それがまるで最後の思い出のように、彼は深く胸の奥に吸い込む。少年はもう決して同じではいられないであろう。自覚のないまま、彼はただの乗客であり、下車することも動きを止めることもできない。世界が絶え間なくどんどん行進してゆく中、自らできるのは踊るように千鳥足で歩むことのみ。
そして神はモーゼに言った。『このことを文書に書き記して記念とし、また、ヨシュアに読み聞かせよ。わたしは、アマレクの記憶を天の下から完全にぬぐい去る』と。こうしてアマレクの民はこの世から消える→紀元前415年、メリアン人はアテネ人に虐殺される。男たちは皆殺しにされ、女たちや子供たちは奴隷にされる→13世紀、チンギス・ハーンが様々な国の人々を虐殺し、骨でできた道を残す→クリストファー・コロンブスとその後500年の白人達により先住民の人口が破壊される→1800年代、英国人により3000だったオーストラリア先住民の人口が300以下に減少する→ナチスは1600万人の奴隷、ユダヤ人、同性愛者などを虐殺→オスマン帝国が80万のアルメニア人を虐殺する→1930年代には一週間に1万人とも言われるウクライナ人が餓死→スターリンとレーニンによる“浄化”→1945年、日本では落ちてきた二つの金属によって20万人が殺される→パキスタンは1971年に100万のヒンズー教徒を虐殺→クメール・ルージュ軍が150万以上のカンボジア人を殺害→エチオピアではメンギツ政権下において15万人が死亡→クルド人達は隣接する3カ国に爆撃される→1994年には100万人近くのツチ族がなたによって殺される→200万人以上のスーダン人が自国の政府によって殺害され、アメリカ人がイラク人を殺し、イラク人がアメリカ人を殺し、ユダヤ人はレバノン人とパレスチナ人を殺害し、レバノン人とパレスチナ人はユダヤ人を殺し、そして私たちは行進し続ける。
2008年2月、60歳を超えているであろうチベット人の男が私を自分の家の奥に連れて行く。彼はカーテンをたくし上げ、その向こうに密かに飾ってあるダライラマの写真を私に見せた。その亡命した先導者が帰郷する前に死にたくはないと私を見つめ涙を見せる。私は彼に言いたかった。自分は無力で、投げられる石も持たず、持っているのはこの黒いカメラと黒い心臓だけであると。私は彼等とその痛み全てを前に世界が素通りしてしまうことを恐れているということ、頭はくらくらし、私には千鳥足で気の抜けたように歩きまわり、撮り、そして撮り続けることしかできないということを。1959年にラサでは8万7千人のチベット族が死に、2008年の五輪は北京に与えられる。そしてさらに100万人が殺され、国旗や先導者も無く、血と痛みの涙、強制的断種、人口減少と続く。太っていて頭の真ん中が禿げている男が言う、『政治権力とは銃身から生まれる』と。道端をロバが行く。そのロバがふらふらと揺れながら何か言いたそうにしている。私はそのロバに語りかける。『友よ、我等はとても似ているじゃないか。私は過去や歴史を背負い、その重荷で気を失いそうだ。。。』

Russell Scott Peagler
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